国政への扉
直ちに自民党横浜市連と神奈川県連で手続きが取られ、党本部に公認申請が行われて、党本部もすんなり、私の公認を発表した。ことがトントン拍子に進んだのは、地方議員の支持表明があったからだけではない。それを受けての強力な支持者が現れたのである。隣の選挙区、神奈川1区を地盤とする神奈川自民党の超大物、O代議士だった。O先生は横浜市会議員から衆議院へと駒を進めた人。政治の世界でいう党人派、すなわち中央官僚ではなく地域社会に根を張ってきた地方議員出身者である。市会の後輩である私の出馬を喜んでくれた。
そのO先生の意向を汲んで、私の選挙体制を組むのに大いに尽力してくれたのが、O先生の秘書を経て私と同期で市会議員に当選したAだった。Aはのちに衆議院議員となり、国政の中枢に座る人物である。Aは横浜ではなく地方の出身で、横浜の有力者の家系ではない。その意味では私と同じヨソ者である。しかし、極めて有能で、O先生の門下生で国政の候補者になりうる人物といえばAだとかねてより言われていた。しかし、中選挙区制度が続く限り、O家の番頭として、やがてO先生の跡を継ぐO先生の子息を支える政治的運命にあると、世間では言われていた。彼から見たら、自分自身の国政への夢の、私は身代わりだったのか?O先生自身の選挙もあっただろうに、猛烈に応援してくれた。
人生とは不思議なものである。もし、中選挙区制度が続き、今日のように横浜の衆議院選挙区が増え、候補者になるチャンスが増えるというようなことがなければ、AはO家を支える番頭として、横浜市会の重鎮の人生を送ったかもしれない。
さて、衆議院銀候補となったところで、大きな壁が立ちはだかった。軍資金である。鉄道を主体とする企業グループ御曹司を中心とする支援企業は、もちろん頑張ってくれるが、選挙参謀たちにいわせると足りない。大学の先輩にあたる横浜の企業人に会長になってもらい、あらたな支援企業グループを作ったが、それでも不十分といわれた。
とにかく当時の選挙は制限がゆるく、例えば電信柱に勝手に貼る事前ポスターも貼り放題。
大選挙区だから電信柱は無数にある。資金力があれば、デザインや色を変えて張り替えたりして、大いに宣伝になる。資金があれば、運動員もたくさん雇える。万事、軍資金次第なのだ。
選挙資金不足で、戸塚区の事務所で思案に暮れていたある時、思案に暮れていたある時、秘書が叫んだ。「先生、変な車がうちの事務所に向かってきます!車体が木製で黒い漆塗り。あっ、ロールスロイスの特製ですよ!」
車が事務所の前に止まり、高級そうなスーツで身を固めた男が降りてきた。男が言った。
「米田さんお久しぶり。ついに政治家になったね。いよいよ国政だね。応援するよ」