衆議院への挑戦
横浜市会議員としての日々は、今思い返しても充実していた。地域社会の住民から様々な陳情を受け、市当局につなげて問題を解決する。私の努力の結果、児童公園ができたり、地域の道路整備が行われたりして、地域住民が喜ぶ姿を直に見ることができ、議員冥利に尽きた。そこが、国家的な大枠の課題を扱う国会議員とは違うところだ。
横浜市会議員になって、1年半後、突如として1990年施行の第39回衆議院議員総選挙候補の椅子が回って来た。今は小選挙区制で横浜市内には衆議院の選挙区が8あるが、当時は神奈川一区と四区の二つだけ。一区は中区、神奈川区など横浜都心部。四区は郊外区であった。私の市会議員としての選挙区・戸塚区は衆議院神奈川四区に含まれていた。四区は定数四で、自民党、社会党、公明党、民社党がそれぞれ1議席ずつ占めていた。自民党は官僚出身で閣僚経験もある議員だったが、引退することになった。
その自民議員の息子で参議院議員をしていた男が、衆議院へ鞍替えすることになった。世襲である。横浜の自民党市会議員や神奈川県会議員の間で強い反発が起きた。おりしも、人口約180万人、有権者約111万人の大選挙区だけに、自民党内にはもう一人候補者を擁立すべしという声があった。ならば、官僚出身ではなく世襲でもない、地方議員の間から候補者をという動きが始まるのは当然だった。
有力なベテラン横浜市議や神奈川県議が次々に出馬表明した。そして時を置かずに撤退を表明していった。巨大な選挙区である。社会党と公明党の現職も著名で有力な議員だった。私の地元戸塚区を同じく本拠地とする 民社党の現職も、地域密着型で保守層にも人気のある議員だった。そこで新人が国政選挙を戦いぬくには、膨大なエネルギーを必要とする。現職や世襲候補に対抗して急速に知名度を上げるための宣伝戦、手足になって飛び回るスタッフの確保。複数の事務所の開設等々。
つまるところ、体力と資金力が問われたのだ。
当初名乗りを上げた候補者たちが皆降りてしまったが、地方議員団としては何とか候補を出したい。何度も会合が開かれた。私は、市会議員当選1回で、市会議員になってまだ1年半。その種の会合では末席に座っておとなしくしている。ある時、議論が尽きて座が静まりかえり、沈黙が続いた。そして、長老議員がみなの顔を順繰りに見まわし、最後に末席の私を見つめて言った。
「米田君、この際、君が決意して衆議院選に挑戦しないか?君の日ごろの行動力、弁舌からして、充分、国政に参画できる」
私は、一瞬沈黙した。頭の中で猛烈な勢いで考えをめぐらした。
「大都市横浜といえども、地方議員は、私以外ほとんどが土着の旧家層だ。落下傘のヨソ者の自分に衆議院候補の椅子が回ってくるのは異例中の異例だ。今、断れば二度とチャンスはない」
そう考えて私は答えた。「ハイ、お受けします」。一度しかないチャンスは逃がしてはいけない。
のちに、新聞記者が私に解説した。
「あの時、だれも貴方が当選するなんて思っていなかった。とにかくあなたをアテ馬で出して、自民党複数擁立の既成事実を作り、貴方が落ちた後、じっくり自分が挑戦するつもりだった」
みながそう思っていたかどうかはともかく、私の当選を確信していた者はいなかっただろう。