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松本を去る

週刊誌記者の生活は面白かったが、「所詮は人の人生つまみ食い、野次馬、傍観者」という言葉が頭にこびりついて離れなくなった。加えて、事件によっては、被害者を取材して面白可笑しい記事のすることもあり、それがたまらなく嫌になった。せっかく入った出版社だ。給料も悪くない。結婚もしたばかりだ。いわゆる若気の至りというやつだろうが、今日に至る大きなターニングポイント、すなわち会社を辞める決意を固めたのである。

では、何をするのか?傍観者ではない究極の行動者、政治家になろうと思ったのだ。それには三つ理由がある。アサ芸は極めてユニークな雑誌で、風俗、芸能、事件を追いながら、一方で大真面目に政治も扱った。もともと子供のころから政治には大いに興味があったから、編集会議では大いに政治ネタを提案し、実際に取材も担当した。その中で、行動し戦う若手政治家たちに魅せられていった。とくに、東京台東区の浅草界隈に生まれ、20代から政界に挑戦し、徒手空拳で区議、都議、衆議院へと駆け上がった深谷隆先生の生きざまには感銘を受けた。徳間書店を辞めた後、深谷先生の広報作戦の一助として地元向け広報誌を作ったこともあった。

政治家を志すようになったもう一つの理由は、学生時代に、世の中をよくしようと思って、それなりに首を突っ込んだ学生運動が、理念倒れで、実際の社会構造や統治機構、権力機構になんの影響力もなかった苦い思いがあったからだ。バカバカしいことや嫌なこともたくさんあるだろうが、やはり国民大衆のなかに入りこんで、定着している議会制民主主義のなかで発言力を持たなければ、世の中を良くすることはできない。そんな思いが固まっていた。

三つ目は、やはり血だろう。といっても、私が世襲政治家だというわけではない。私の祖父は明治初期に信州松本から東京に出て法律を学び、自由民権思想の洗礼を受け、郷里に帰っては政党政治確立のために尽力した人物だった。とはいえ、自分で議員に出るのではなく、政党の地方役員としてひたすら政治家を目指す人の応援をした。

我が家は、代々松本城下のある町の庄屋で素封家であった。祖父は地方銀行の役員もしていた。その先祖代々の財産を、祖父は他人の応援のために使い果たし、祖国敗戦の昭和20年、売り残した松本の土蔵で死んだ。亡くなる時、父に残した言葉は、「日本は大変なことになったが、これから本当に自由と民主主義に基づく国家をつくるチャンスかもしれない」というものだった。

祖父は保守政党の人間であり、いわゆる左翼ではない。明治初期という思想に関して比較的自由な時代に受けた教育から、全体主義を排し、議会制に基づく自由と民主主義を保証する体制が最も正しいという信念を持ち続けた人であった。私の政治志向はそんな祖父の遺伝の影響があったのかもしれない。