信州から横浜へ
様々な人間が共生する人間社会。国家や社会の課題の解決法についても、当然、利害が異なるから、一致しない。しかし、放置しては国家社会の進歩はない。そこで、選挙などの方法で選出された議会等に権力すなわち決定権を与え、物事を強制的に処理する。これが政治の本質である。人間の生存に対し、最も強力に影響力を発揮するのが政治なのである。
政治家を志すにあたり、さて、どこで、何を目指すのか?自治体の長か?それとも議員か?議員にもいろいろある。地方議員、国会議員・・・。私はなんと、郷里の信州松本地方からいきなり、衆議院議員を目指すことにした。今から思えば無謀である。しかし、その頃は、有権者は新しい風を求めていると思い込んでいた。従来、中選挙区においては、地元出身の官僚OBや名士が保守系、労働組合バックにつくのが野党系と、色分けがされていた。
私は、そのいずれでもない、若き元雑誌記者に、新しい息吹を感じる人々がいると思い込んだのである。官僚OBには、出身官庁関連の予算が地元につくという期待が集まる。そういう、中央からのカネをあてにするさもしい政治を憂い、真に地域の発展と国家の将来をうれえる民の代表を選びたい人々がいるに違いないと信じていたのだ。
徳間書店の編集部が送別会を開いてくれた。無謀な戦いに臨む私をかこんで、沈痛な雰囲気が漂い、まるでお通夜のようだった。妻は、新宿駅から『特急あずさ』で松本へ向かう私を、列車が動き出してからもなお小走りで追い続け、頬は涙で濡れていた。私が35歳の年であった。
運動を始めた当初は珍しさもあいまって、旧知・旧友が集まって来た。松本市内、近隣の市町村、あちこち回った。演説会も開催した。若い層には一定の支持者ができてきたが、旧来型の有力者の間では、まったく相手にされなかった。松本市在住の有名な芸術家に支援要請の挨拶に行った。俗にまみれていないから、支持してくれると思ったのだ。しかし、「君がやっていることは児戯に等しい」と一蹴された。児戯、つまり子供のいたずらみたいなものだ、というのである。この芸術家は地域では有名人で、政財界の有力者の間でも重きを置かれていたから、もともと私なんぞを応援するはずはなかったのである。
そのうち、建設官僚が自民党公認で出馬することとなった。私が卒業した高校の先輩である。地元に公共事業を導入するという華々しい公約を掲げての登場であった。すると、雪崩を打ったように、私の周りにいた人々が去っていった。元官僚の陣営にはせ参じるためだ。人が政治に関るときの姿として、当然であったかもしれない。落選確実の人間を推す者はいない。
しかし、落選確実の私をさいごまで支えようとした人々がいた。そして、その人々から、私は生きる上での多くのものを学んだ。そのことが、無残な撤退の後、再び立ち上がる大きな糧になったのだ。