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忘れ得ぬ人々

最後まで私を支えようとした人々は、私の勝敗よりも、徒手空拳の青年が大きなものに挑戦する姿に、未完に終わった自らの夢や情念の燃焼を託していたように思う。

たとえば、ガンで死期を悟りながら(そのことを、私は後で知った)、若妻や幼子のためにだけ過ごすべき貴重な時間を、突如現われた中学の同級生である私のアテにならない夢のために割いたM君は、学生時代の政治的、思想的苦悩(私達の青春は政治と思想の季節だった)のはてに海外放浪に出て、帰国後、故郷の大町に居を定めていた。おそらく彼は故郷で、精神的余生を送っていたのだ。

彼は死の直前、入院中だという病院から電話をよこして、こう言った。

「今まで付き合ってくれてありがとう。もう、東京へ帰っていいよ。俺はもうじき死ぬ。でもお前は必ず不死鳥のように甦って、夢を達成してくれ」

その10日後、彼は逝った。

金もなく、人手もなく、私と二人で弥次喜多のように、町から村へと廻り、ほとんど聴衆のいない演説会を開いた。やがて私は、過労で体調を崩し、戦意を喪失しそうになっていた。その矢先の電話だった。私は、東京へ戻った。再び政治に挑戦するまで有為転変があった。しかし、「不死鳥のように蘇って」という彼の言葉を忘れたことはなかった。やがて横浜で衆議院議員に当選し、M君の墓前で報告した時、その電話から10年の歳月が流れていた。

松本で小さな運送業を営んでいたO氏も、最後までともに戦ってくれた一人だ。私の松本での戦いが持ちこたえられなくなる頃、世間の逆風がビュビュウ吹いて、「米田なんか応援する奴はバカだ」いわれても、彼は昂然と胸をはり私の集会で司会のマイクを握っていた。めいっぱいオシャレして、なぜか白い靴をはいて。私より年長で、おそらく若い頃は田舎には不似合な伊達男だったにちがいない彼の青春は、私や丸山君のような政治青年とは違ったものだっただろうが、やはりどこかに燃え残した夢を置いてきていた人であったにちがいない。

私が挫折して松本を去り、横浜で衆院議員となった後も、大沢氏はしばしば横浜での行事に参加してくれた。その大沢氏が死の床にある時、夫人とこんな問答を交わしたという。

「誰か、会いたい人いる?」

「米田さんに会いてぇ」

「ダメ、ダメ、米田さんは国会で忙しいんだから、急に呼んだりできないよ」

やがて、大沢氏は逝った。大沢氏の燃え残した夢は何だったのだろう。語る間もなかったのが心残りだ。