目次17 / 21
17

消防団との出会い

人間努力だけではどうにもならない。チャンスに巡り合う運も必要だ。その運も、目標を諦めずに努力し続けることから開けるという人もいるが、いくらがんばっても運に恵まれないことがある。人生は大宇宙から見たら一瞬の夢の如し、やるだけやってダメでも仕方ない。やらないよりましだ。その覚悟で生きればよい。

ともあれ、私は運に恵まれた。N社長はなかなかの人物だった。第二次大戦敗戦後の地域社会立て直しのために地元の青年団を組織した。また、とくに防災自主組織としての消防団の育成に尽力してきた。政財界ににらみを利かせ、全国の消防の総元締めともいわれるある大物に極めて近い立場にもいた。当然政治に関心が深く、戸塚区の保守勢力の行く末に危機感を抱いていた。N氏は新しいタイプの候補者を求めていたのだ。

N氏は私のために猛然と動き出した。先述した市議会自民党重鎮とも連携して、建設業界の支持も取りまとめてくれた。こうして、無名の落下傘候補が、戸塚区選挙区の期待の新人自民党公認候補に変貌したのである。自民党公認が決まると、それまで私を相手にしなかった人たちが続々と近寄って来た。そして、私の後援会の役員になりたがるのだ。それが彼らにとって社会的なステイタスだったからだ。

地元の旧住民有力者が私の周りをかためるようになると、当初、私を応援してくれた都市型新住民の様々なグループとの距離が遠くなった。後の国政進出を考えると、その層の組織化をもっとうまくするべきだったが、何しろ、選挙活動なんぞははじめて、すべて自分で工夫するのだから、不手際は避けられない。

支持層が拡大してきたが、大方の選挙通は、まだ私の当選を確実視していなかった。戸塚選挙区の横浜市会議員の定数は7。自民党は私以外にもう一人新人を公認した。私と同世代で、代々地元の旧家の御曹司。学歴も立派で、なかなかスマートな人物だった。世間は、まず彼が当選して、私が7人のうちに入るか否かが見どころと踏んでいた。

厳しい選挙になる要因はもうひとつあった。当時、自民党政府は売上税の導入を打ち出していた。反政府系メディアが煽ったこともあって、国民の間には反自民の機運がみなぎっていた。税制は国政マターであるが、地方議会議員選挙でも影響は大きい。それに恐れをなして、自民党の地方議会候補にも関わらず、「私も売上税には反対です」などと書いたビラをばらまく卑怯者も出る始末だった。

しかし、私は一歩も引かなかった。売上税は消費税に類似した関接税である。黒板を集会に持ち込んで、その意義を説いて廻った。

「現在の税制は、法人や個人の所得に注目して課す税が中心である。しかし、今後、若い稼働世代が減少し、所得のなくなる高齢者世代が増えてきたら、若い世代の税負担を増やすことになる。それでは国家が衰退する。誰もが薄く広く負担する安定した税が必要だ」

真実を述べて、落選してもかまわないと思っていた。選挙戦が終わって投開票日。大方の予想に反して私は当選した。1987年4月のことであった。一方、地元の御曹司は落選した。