妻との歩み
当選を最も喜んだのは亡き妻だ。前にも述べたとおり、私が最初に勤めた社会保障関係の出版社の同僚で、児童文学者の娘として育ち、子供のように純粋な魂の持ち主だった。人を憎んだり、人と争ったりすることのなかった人だった。そんな彼女が、あてのない夢を追い求めて安定したサリーマンの道を捨てた私を見捨てずに、ずっと寄り添ってきてくれたのだ。政治家の妻など、最も彼女に似合わないはずだが、彼女は公私にわたり私を支え続けたのだ。
東京生まれで、背も高く、どう見ても地元の土着社会の人たちとは雰囲気が違う。政治家の妻というものは、夫以上に誰にでもぺこぺこと頭を下げなければならないというのが、選挙の世界の常識。ところが彼女は、「尊敬できる人に対して以外は、やたらに人に頭を下げてはいけない。人間はプライドを捨ててはいけない」と父親から教育を受けた人だ。いわゆる候補者の妻とは違和感があったから、後援会内部から、ずいぶんと陰口をたたかれた。
私はかばった。「候補者は私であって、彼女ではない。たとえ、選挙に不利であっても、彼女の良き点を無理に曲げるつもりはない」と。
しかし、彼女は努力した。後に衆議院議員夫人になるわけだが、事務所の運営、秘書団の統率、後援会との付き合い、すべてを完璧にこなすようになった。世間知らずの純粋な人が見事に変身した。すさまじい心の葛藤があったに違いない。苦しんだに違いない。そんな道に引き込んでしまってすまない、という気持ちが私の胸の中には今でもある。
その彼女が後年、国会議夫人として雑誌のインタビューを受けた際、それまでを振り返って、「横浜市会議員にしたことが、まず、奇跡だったと思います」と語っていた。そのとおりだと私も思う。横浜市会議員をへて衆議院への挑戦は、政令指定都市議員という国政挑戦者としてのパスポートがあってのことだ。
しかし、横浜市会議員への当選は違う。夫婦そろって選挙区に縁がなく、係累に横浜の政治家がいたわけでもない。まさに文字どおり徒手空拳の人間が落下傘のように舞い降りて、わずかな期間の活動で、先祖代々地元に張り付いてきた旧家の御曹司を破り当選したのだ。他党の当選者も、地元企業の労働組合出身等、地縁があり基礎票がある者ばかりであった。波乱万丈、挫折と復活の繰り返しの日々をともに歩んだ記憶がよみがえり、亡き妻に「横浜市会議員に当選したことが奇跡だった」と言わしめたのであろう。
政令市議員のバッジが胸に付いた。私は水を得た魚のように、バリバリと働き始めた。地域住民の要望もどんどん受け、猛スピードで処理した。名誉職で議員になったのではないから、当然のことなのだが、日増しに人気が高まっていった。また、議会での質問もレベルが高いと評価を受け、やがて、「国政候補の有資格者」と、横浜の政界で言われるようになったのである。