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ロールスロイスの男

ロールスロイスから降りてきた男は、湯島グループのMだった。松本での国政出馬の戦いに挫折して東京へ舞い戻りくすぶっていた頃、行きつけの湯島の居酒屋で出会った。その店の常連グループが私の後援会を作ってくれたのだが、彼はその一員だった。彼との会話を今でも鮮明に覚えている。

「米田さんは政治家を目指しているのか。俺はね・・・事業家になりたいんだ。金持ちになりたいんだよ。育った家は貧乏でね。親父は洋服の仕立て職人だった。ある朝、親父がミシンのうえに突っ伏して死んでいた。徹夜続きの過労で心臓麻痺だった。あの姿が忘れられない。貧乏は嫌だよ。悲しいよ。米田さん、絶対に政治家になれよ。国会議員になれよ。俺は金持ちになって、アンタを応援する」

再会したMは、すっかり実業家らしくなっていた。ある商品の販売業で大儲けしたというのだ。Mは言った。

「米田さん、約束を果たすよ。市会議員で満足しちゃダメだよ。応援するから、国会へ行くんだ!」

Mが中心になって、東京で新たな資金提供グループができた。貧乏候補が、資金力豊富な候補に変貌したのだ。

今から思えば、完全な金権選挙だった。知名度をあげるため、様々な集会に芸能人やタレントを呼びまくって聴衆を集めた。地方議員をしっかり抱き込んだから、どんな集会でも彼らが全力で動員に協力した。7500人を動員したある集会では、超有名女性歌手を特別ゲストに呼んだ。私の演説の後、彼女が登場。私が雑誌記者時代からの親友とゆうことにして、彼女のヒット曲をデュエットした。動員された聴衆は大喝采した。

アホらしいと言えばそれまでだが、それが大衆民主主義の宿命的な愚かな部分だ。とにかく当選して、立派な仕事をしさえすれば、それまでの恥や汚点は帳消しになる。そう自分に言い聞かせて、巨大な選挙区を駆け回った。

私のキャッチフレーズは「可能性の42歳」だった。片手の拳を振り上げたにこやかな笑顔のポスターが街中に氾濫していた。

そして投票日、私は約10万票の得票で落選した。次点だった。後援会婦人部と妻が悔し泣きしていたが、私はニコニコしていた。1万票以下の票で戸塚区選出市会議員になった男が、それから間もなくして衆議院議員候補になり、約10万人に名前を書いてもらったのだ。私はうれしかった。しかも次点。中選挙区で若手新人候補が次点。昇り調子だから期待が高まり、次は当選の可能性大というのが国政選挙の不文律だ。私は、その次の選挙までの約3年間を何の苦痛も感じずに頑張りぬいて、1993年、約11万票の得票で、見事に初当選を飾った。定数5の内で3位だった。

45歳であった。徒手空拳の45歳が衆議院議員に当選。当時は異例の出来事だった。