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横浜の裏町で学んだこと

横浜での青春は、大学で学ぶことよりも、街で出会う様々な人々から得るもののほうが多かった。1970年前後の時代、横浜はおしゃれな観光都市としての顔の裏に、第二次大戦後の混乱の名残や、普通の人には近寄りがたい独特な匂いを放つ街があった。

国際港横浜には世界中から貨物が集まる。港内に停泊している大型の貨物船に、岸壁と貨物船を往復して荷を陸揚げする小舟が群がる。その小舟には、かき集められた日雇い労務者たちが乗り込んでいる。重労働に耐えて日銭を稼ぎ、その日の飯と酒にありつくためだ。

その労務者たちが集中して住んでいるドヤ街がある。昼間から、酔っ払いがふらふらと路上を歩いていた。前歴不明、訳ありで、全国から流れてきた人たちだ。今では、港湾作業の機械化や社会的施策も進んで、ずいぶんと町の雰囲気は変わっているだろう。

労務者たちは、早朝、港の一角にたむろして手配師の募集を待つが、その中に時折、貧しい学生も混じっていた。学生の乗り込む船が決まって出発するとき、労務者たちが「学生、がんばれよ!」と声をかけてくれた。私もそんな学生の一人だった。

名高い横浜中華街も、当時は裏町に入れば独特な雰囲気があった。入口にでっかいセパードが寝そべっていて、帳場には日本語があまり上手ではない中国服のお祖母ちゃんが陣取っていた。ランチタイムは安かったから、貧乏な私は、当時まだあった市電に乗って時間切れを気にしながら駆け付けたものだ。

危険な地域もあった。運河のほとりに夕方になると緑色のテントが並び、いろんな商売が行われる。街には「ポン引きに気を付けましょう」などと書かれた看板が立ち並ぶが、それでもテント群に引き込まれていく人はいる。学生仲間のなかにテントの喫茶店に入り、コーヒー一杯2千円を取られた。50年前の2千円である。

普通の喫茶店だが、片腕のないマスターがいた。戦争で失ったか、喧嘩で失ったか確かめなかったが、尋常な人生ではなかったことは間違いない。おでんの屋台の親父も記憶に残る人だ。凄惨な戦争の記憶と餓死寸前の逃避行を語ってくれた。当時、旧軍兵士の経験者がまだ壮年で働いている時代だったのだ。歴史には教科書に書かれているような正史と、巷の無名の人々によって語られる裏面史がある。そして、後者に真実が隠されている。

ビアホールの呼び込みとウエイターのアルバイトをしたこともある。街には、石田あゆみの「ブルーライトヨコハマ」の唄が流れていた。腹をすかせたアルバイト仲間で、客が残した焼き鳥を食べたことがある。しかも、客から見えるところで。「お前たちにはプライドがないのか」と支配人が薄っすらと涙を浮かべて怒った。当然の怒りだ。

この支配人と後年、東京の六本木にある高名なレストランで偶然、再会した。彼はその店の幹部スタッフらしかった。私は横浜市会議員になっていた。店内ですれ違ったとき、一瞬、目が合った。彼は私の胸の議員バッジを見て、優しく微笑みながら深々と頭を下げた。私も「お世話になりました」と心の中でつぶやきながら頭を下げた。