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出版社時代 — ジャーナリストの日々

横浜は開港前までは小さな漁村であった。欧米諸国の圧力を受けて、徳川幕府が貿易港を指定する際、江戸から距離を置いた場所を選んだのだ。同じく、もうひとつの日本の拠点・大阪については、やはり距離を置いた神戸を指定した。中枢部で不測の事態が起きることを避けたのだ。結果として、横浜、神戸、二大港湾都市の誕生につながった。

港の建設に従事する者、当時の日本の主力輸出商品である生糸を扱う貿易商、新天地で新しいチャンスをつかもうとする者など、日本中から人が流れ込んだ。外国人も同様だ。上は外国政府関係者から、下は一攫千金を狙う山師の類まで、海を越えて渡ってきた。成功して故国へ帰った者もいれば、日本で生涯を終えた者もいる。

日本に渡ってきた外国人には、歴史に名を遺す有名な人物がたくさんいる。しかし、私が興味を持ったのは、功成り名を遂げた人々よりも、無名のまま日本で人生を終えた人々、あるいは苦渋の人生を送り朽ち果てた人々であった。

横浜・山手の外人墓地が有名だが、市内のそこここに日本で生涯を閉じた外国人の足跡がある。著名な仏教寺院の墓地の中で見つけた碑文の内容を今でも覚えている。スイスから日本に来て、一度も故国に帰ることなく日本で生涯を閉じた夫への哀惜の言葉を、日本人の妻が綴ったものだ。夫はスイスで工学を修め、若くして来日し日本の民間企業で技術指導をした。やがて妻となる日本の女性と結婚し、子供も生まれ、勤勉で誠実な人生を送ったというものだ。そのような夫に妻は感謝の言葉を捧げ、現代語訳すれば、最後に次のような意味の言葉で碑文を結んでいた。

「あなたは一言も私たち家族には言わなかったが、せめて一度でもあの美しい祖国へ帰ってみたかったに違いない。あなたの気持ちを思えば胸が張り裂けそうだ」

無名の人々の人生の集積こそ歴史である。

横浜で生涯を終えた外国人の足跡を訪ね歩いたことは、私のそんな思いをますます強くさせた。

まっとうな人だけではない。完全に人生が破綻し、横浜で朽ちてゆく外国人もいた。外国の下級船員がたむろする居酒屋があったが、酒を飲むといつも暴れる老いたギリシャ人の元船員がいた。通称ジョージ。しかし、心配ない。年齢不詳の日本人街娼、通称メリーさんを呼んで叱ってもらうとジョージはおとなしくなる。ジョージはメリーさんを愛していたのだ。

いろんな世界を見て、いろんな人に出会い、やがて大学を卒業しなければならない時が来た。1年留年したから、それ以上は留年できない。とにかく、成績は合格最低点でもかまわないから単位を取りまくって、卒業にこぎつけた。さて、これからの人生をどうするか、これといった見通しもないまま、横浜との別れの時が来た。

落泊の流れ者も 外国人も 根岸や ゲオルグ メリーさん

卒業 横浜との別れ