運命の出会い
もう一つの大きなエポックは、亡き妻との出会いだ。彼女は同期入社で、いつも明るく笑っていて、当初は、彼女を社員ではなくアルバイトの女子大生かと思ったほどだ。一方で私はといえば、いろんな想いが頭の中で渦巻き、いわゆる暗い“本の虫”であった。彼女は児童文学者の娘で、真っすぐ育った人だ。人生への懐疑にとらわれていた私には、彼女はまぶしく見えた。人間として生まれたからには、とにかく理屈抜きに生きる。生きることは理屈ではない、そんな思いにさせられたのだ。
いつしか私たちは、四畳半のアパートで一緒に暮らし始めていた。彼女はのちに政治家米田の妻として、私の人生を支えプロヂュースする有能でかけがえのない人になる。
破滅型で根無し草のようだった私に、明るく真っすぐな性格の彼女ができたのである。日々を生きることの楽しさというものを、少年時代以来、久々に味わった。しかし、問題があった。上司とも平気で喧嘩する私と、職場の人気者の彼女のカップル。小さな会社だから、皆に知れ渡った。居ずらくなった。何よりも彼女がかわいそうだった。
転職を考え、新聞の求人広告に目を通す機会が増えていった。そんな折、出版社の徳間書店の求人広告が目に入った。「経験者募集」。つまり、新卒ではなく、途中入社可ということだ。徳間書店にも興味があった。
創業者の故・徳間康快氏は読売新聞記者を経て、第二次大戦後の焦土の中から這い上がり、持ち前の行動力と才覚で出版社・徳間書店を創業した人物。のちに音楽、映画業界にも進出した。政界にも顔が広く、異色の傑物として一世を風靡した。
私は、その徳間という人物にかねてより関心があったのだ。入社試験は大変な競争だったようだが、またも文章力で救われた。最後の関門は役員面接で、なぜ、わが社を受験したのか?と問われ、気の利いたことを言おうと思ったが、「御社の社長に大変な興味を抱いているから」と本音を述べた。生意気な奴と、落とされるかと思ったが合格した。私の答えが社長の耳に届いたのだろうか?
しかし、最終最後の関門を忘れていた。健康診断である。私は先天的な色覚異常である。いわゆる色盲。といっても物が白黒に見える完全色盲ではない。グリーン、赤、ブルー、グレーなどの色が淡くなると区別がつきにくくなる弱色盲だった。物を観察した場合、健常者と違う色に見えるのだから、就職の際、チェックする企業は多い。特にメディアはなおさらだ。「残念、これでダメか」と思ったが、彼女と相談して、あるアイディアが浮かんだ。色盲検査表を暗記しようということになったのだ。
色盲検査表は一冊の本になっている。ページごとに様々な色の水玉模様が集まって円になっている。正常人が見れば、そこに文字や数字やらが浮き上がって見える。ところが私には見えない。ただ水玉がごちゃごちゃしているだけだ。神保町界隈の古本屋で、最も一般的に使用されているとされる色盲検査表を買ってきて、彼女が検査官役になり、各ページの正解を暗記することにした。
そして、検査当日が来た。違う!色盲検査表が違う。別の会社制作のものだった。さっぱりわからない。いよいよダメかと、入社をあきらめていたが、合格の知らせが来た。「あの~、私、色弱なんですけど」と言ったら、「ウチはそんなこと関係ありません」という返事。驚いた。凄い会社だと思った。
入社して最初に配属されたのは新規発行の劇画雑誌だったが、そこでは作家の担当の他、グラビアの色校正もやらされた。色弱の私にやらせていいのかと思ったが、上司は涼しい顔。同じ編集部に、後にアニメの世界で大活躍するジブリの鈴木敏夫がいた。彼も色校正をやっていた。鈴木とは後年、ある出版社の企画で元同僚対談をやったが、鈴木は「実は俺も色弱だった」と言った。徳間書店は破天荒で凄い会社だったのだ。
徳間書店に入社が決まって、私たちは正式に結婚した。それを機に、東京の池袋に近いアパートから千葉県市川市に引っ越すことになった。アパートの大家のお婆さんが「このアパートに住んでいた男女で、正式に結婚したのは、あなたたちが初めて」だと、涙ながらに、万歳、万歳、万歳と両手を挙げて、荷物を積んだトラックに乗って越していく私たちを見送ってくれた。乏しい家財道具が、トラックの荷台でガタガタとはねていた。